連絡先も名前も知らない娘、知っているのは顔と体だけ。薄い背中と細い腰、俺にとって理想的な身体だ。だけど申し訳ないけど答えは決まっている。俺の目を少し睨んだ生意気な瞳を愛らしく思う。「わかりました」と強気に紡ぐ唇は淡い橙で彩られていた。オリーブ色の髪が軽く靡いた。彼女はいなくなり、俺は一人になった。何を思うわけでもなく夕焼けも落ち暗くなった外を眺めて小さく息をした。ピサロの『モンマルトルの大通り、夜』みたいな空の色だ。電灯に照らされたコンクリートも濡れている。
先日の晴れの日から梅雨明けが始まりつつあったようで今日は久々の雨だった。今は少し蒸し暑い。足の小指の爪を切り過ぎてしまったような虚しい気持ちをどうにかすべく、夜の校舎を歩いてみようと開けっぱなしの扉から廊下へ出た。
入学して一年と少しが経ったが、こっちの校舎にくるのは三度目だった。経営学部の俺はスポーツ系の学部のある北館に用事があることは無い。今日みたいに呼び出されたり、学園祭がある時に立ち寄るくらいだ。
階段をゆっくり上がっていく。嫌になってしまうような静寂だ。家以外の静けさに俺はまだ慣れない。俺の周りには騒がしい奴が多いから、常に賑やかなんだけど。でも今はあいつらなりに気を利かせたつもりなのか「どうなった」の一言すら寄越してくれない。...無理もない、無理もないか。あの娘を知ったお酒の席の隅で行われていた甘い会議。どうしてあの時聞こえてしまったのだろう。それさえなければこうして思いを巡らすこともないのに。
嫌われてはいないのだと思う。ただ、今回のことはあいつらにとって面白いものではなかった。それだけ。それだけの話なんだ。わかっている。大丈夫わかっている。あいつらは決してそんな奴らじゃないから。

四階の床に足を踏み出すと、遠くの方で声がした。女の子の声、一人で喋っている?ちょっと不気味だ。何となく気になってそろりと廊下を覗いてみた。髪の明るい女の子と黒髪の女の子。二人ともジャージを着ている。明るい色の娘が黒髪の娘に話しているみたいだった。俺だったらあんな無言耐えられない。喧嘩でもして謝られているのだろうか。どんな二人なのだろうと少し興味が湧く。俺は踊り場から出て歩みを進めた。
明るい髪色の女の子は俺が来たからか少し声を落とした。近づくにつれ良く聞こえる声はものすごく聞き覚えのある声で、俯いていた顔を少し上げた。相手もそう思ったらしく、俺の顔を見ていた。

「やっぱりそうだ!桜庭じゃん!!何でこんなとこいんの!?」

同じサークルの同級生の小佐田だった。新歓の時隣の席になって話が弾み、以来良い友だちとして付き合っている。ただ最近はあまりサークルにも飲み会にも参加していないから会う頻度が減っていた。まさかこんなところで会うとは。

「小佐田こそ!ここ全然お前の学部と違うじゃん」
「いやー、ちょっと言いづらいんだけど...まあサークル見学してるとこ。つか体験入部」
「え...え!?聞いてないんだけど」
「誰にも言ってないし。今月で辞めるんだ。で、アメフト部入ろうと思ってて」
「そっか...そうなんだ。なんで?サークル嫌になった?」
「うーん。まあ、そうかも。本当に楽しかったんだけどさ、なんとなく見切りつけなきゃなと思って。あ、別に誰かと喧嘩したとかじゃないからね。でも、一番大きな要因は、」

この娘!と、小佐田は隣にいる女の子の腕に体をくっつけた。重い前髪がふらりと揺れて切れ長の大きな目を瞬かせた。真っ黒の綺麗な瞳。俺は全く同じことを昔も思ったことがあったことを思い出す。あの時はもっと簡単に瞳が見えた記憶がある。だってその娘の前髪が、というより全体的に髪が短かったから。覚えている、とても良く覚えている。

「進さん?」

小佐田はきょとんとした顔で自分が抱きついている女の子と俺の顔を交互に見つめる。
黒髪の女の子は表情ひとつ変えずに俺を見ていた。

「進さん、進さんだよね!?久しぶり!俺のこと覚えてる?」
「ああ、久しいな。覚えている」

え、何知り合い?と訊ねる小佐田に対して小さく頷く進さん。綺麗な艶々のストレート・ヘアがさらりと揺れた。

「知り合いっていうか...中等部高等部ってずっと同じクラスだったんだよね。名前も近いから席前後の時もしょっちゅうだったし」
「え!そうだったの?なんて運命!」

なんて運命 不思議な言葉だと思った。俺と進さんは王城で唯一六年間同じクラスのペア同士だった。王城は人数が多いから六年間ずっと同じクラスということは滅多にない。確かにこうしてまた再会できたのは運命だろう。
進さんはもう俺に対しての興味を失ったのか、手に持っていたプリントに視線を落としている。小佐田はそんな彼女をお構いなしに話を続けた。俺は小佐田と話しながらもずっと進さんの様子を窺っていた。彼女の顔立ちは出会った中学の時に比べて当然だが大人びていた。青白かった頬は桃色を帯びたが目元は大分鋭くなった。重い前髪から覗く格好の良すぎる眉は先天性のものなのだろう過去とそう変わっていないような気がする。まつ毛はあまり長くないが、長さは均一で目を丁寧に縁取っていた。程よくシャープな鼻は進さんの綺麗な顔をより際立てている。口は一文字に引き締められ真面目そうな印象を色濃くしていたが、少し怖そうな感じもする。事実彼女が何度もそのような誤解を受けていたことを知っている。しかしそれらの誤解に対して進さんがどう感じていたのかは分からなかった。

「でね、私が進さんに興味を持ったのがね!」
「小佐田、そろそろ」

ずっとプリントを眺めていた進さんが顔を上げた。ちらちらと見ていたため少し目が合ってしまったが彼女は気づいていないようだった。小佐田は「ここからが話したいところだったのに!」と不満を漏らしている。俺も全くの同意見だった。ここからが聞きたい内容だったのに!しかし進さんを待たせていた手前、何とも言えなかった。

「じゃあまた今度ね。進さんのことで話したいことがたくさんあるのよ、本当に!」
「そんなに言われちゃうとすっごい気になっちゃうな。聞かせてよ」

それじゃあねと手を振る小佐田とは対照的に本当に俺に興味が無いのであろう進さんは俺を視界に入れてくれずに遠ざかる。なんだかそれが気に食わなくて、離れ行く彼女の腕を振り返って掴んだ。アメフトなんてしたことがないんじゃないかってくらい本当に細い腕だった。彼女は力強く歩いていたのかそれとも元の体幹が良いからか体を一切ふらつかせることなく静止した。「なんだ」とされる流し目はやっぱり少し冷たくて怖い。もしかして怒らせてしまっているのだろうかとネガティブに向かう思考を振り払って「あのさ」と訊ねる。

「進さんって何学部なの?それだけ教えて!」

は!?と大きな声が聞こえたのはその隣だった。進さんは俺の方に体を向けてくれていた。丁寧な彼女らしい仕草で密かに心が和んだが、そんな俺の心情とは全く逆な小佐田の表情が俺を少々不快な気持ちにさせた。どうしてそんな顔をするのかと漏らせば信じられない!と大袈裟に叫ばれた。そんな声を聞きつけたのか、それともあまりにも戻らない二人を探しに来たのか階段の方からアメフト部らしき人が来た。二人の名前を呼んでいる。その声に小佐田は振り向き声を返す。

「経営だ」

青空からの雨粒のように唐突に進さんは言葉を落とした。そして俺の手のひらからするりと器用に腕を引き抜くと今度こそ彼女は離れていった。小佐田に睨まれ「今の桜庭流石に失礼だよ。経営人数多いけどさ...それでも同級生だったなら知らないはずないでしょ名前も近いんだし」「興味なかったで済む話じゃないよ」と、彼女もアメフト部の後を追った。

俺は何も考えることができなくなってしまった。元々そんな行為なんてしたことがなかったみたいに足を踏み出すこともできなかった。携帯がリュックの中で震えている。そのバイブレーションの音すら聞こえない。針の飛んだレコードみたいに彼女の無機質な声がずっとリフレインしていた。




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2023.3.21

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