わからないことはいつも君の傍にある
全部ある



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 医者が俺を呼ぶ。彼女の家族でもなんでもない俺を自分のデスクの傍に座らせて気難しい顔をした。指先でデスクを叩き、そして溜めていた息を吐く。丸い椅子の反撥しない柔らかさを尻に感じながら医者の言葉を待つ。初対面のはずなのに初めて会った気がしない白髪頭を見つめていると唐突に「進清十郎さんですが」と見た目に反した高い声が飛び出す。

「外傷は当然ながらあります。脳震盪、左手親指の骨折、全身のむちうち、左半身の擦り傷、それと右頬の火傷」

 何も言葉を口にできなかった、何を言ったら良いのかも分からなかったこともあるけど。両手で作った拳は汗をかいているのに頭の内側は冷え切っていた。悲惨な進の体の状態を告げる医者は尚眉間に皺を寄せて指の動きを速める。

「そして不運なことに精神的な問題も同時に抱えています」
「そんな」
「二つですね。少し表現が難しいのですが、当然要因は両方とも事故によるものです」

 事故以外に何の要因があるといえるのだろう。そんな言い回しよりも進の精神的な問題というものを知りたかった。

「一つはやもすれば発症しないかもしれないです。しかしそれは今起こっている問題を解決しないことには分かりません」
「急かすようですみません。進は、進はどんな問題を抱えているのでしょうか」
「記憶障害です、重度の」

 傍に立っていた看護婦はわざとらしく涙ぐんだ様子を見せる。それが気持ち悪かったが、自分は呆然としていて涙ぐむことなんてできなかった。自分の方が気持ちが悪い。どうして親友の一大事に自分は泣けないのだろう、こんなの親友に対してではなくても泣けるはずなのに。ドラマや映画だったら涙なんて尽きてしまうほど泣いていた。自分はこういう話にめっぽう弱い。全身が透けていくような感覚が自分を包んでいるだけで、しかし感情が何も湧かなかった。困惑もせず。そんな心持ちの中医者は話を続ける。

「もう何も覚えておられないようです。幸いにも人間的生活に必要な事柄は覚えられているようですが、彼女がどう形成されてきたかの、要は歴史ですね。彼女の歴史。彼女は自分のことを覚えていません。当然ご家族ご友人のことなんて全くもって、といった感じです」
「つまり俺のことも」
「当然そうなりますな。そしてもう一つというのがですね、その記憶障害が治った後に彼女のご家族が亡くなられたという現実に向き合えるかどうかなのですよ。つまりは、ショックを受けて鬱にならないかということですね」

 しかし当然ながら進清十郎さんはショックを受けますでしょうし、と医者は話を続けている。「当然」がこの人の口癖らしい。大して中身のないことを良くこんなに喋れるなと苛立ちながら話をうんうんと落ち着いて聞いていく自分は明らかに普段の自分ではなかった。
 医者は立ち上がり俺も倣って立ち上がる。ノーアウトランナー二塁、女房役が得点を決め逆転勝ち どうやら病室に案内されるようだ。俺の後ろには背の低い年増の看護婦が着く。
 病院らしい病院の中を歩く。しかし頭に浮かぶのは生真面目な進の顔だけで、医者の話も看護婦の特徴的な鼻息も知覚はできるが記憶に残すことは難しかった。おそらく十秒後には忘れている。

「こちらですね」

 個室の引き戸が開かれる。白いベッドしかない部屋は窓が全開で、枯れた木と晴れた空が賞を取れない写真の一枚のようだ。ザ・ラスト・リーフ、オー・ヘンリー 頭に包帯を巻かれた短髪の痩けた顔がこっちを見た。

「桜庭」

 気持ちの良い声が耳に染みる。俺は驚いて進に近寄ると、彼女は瞳を歪めて俺に抱きつく。それは蜘蛛が昆虫を殺す様子を俺に呼び起こさせた。医者も駆け寄りまるで奇跡だと言わんばかりに俺たちをじっと観察している。頼りがいのあった腕は育ちの悪い大根のように心許なく、引き寄せた体はまな板のように薄い。進ではないみたいだった。しかしこれはどうしようもなく進だ 髪は短いけれど。お手上げの魅力的な柔らかさが自分を離さない。

「進さん、あなたの担当医のサブスティチュートです。覚えておられますかな」

 進は俺に抱きつきながら小さく首を動かす縦に。俺の左腹辺りに顔を埋めている彼女の表情は言わずもがな見えない。

「この方を覚えていらっしゃるんです」
「桜庭」
「なるほど。ではこの方とあなたの関係は」
「他のものなんて全て知らない、それで良いだろう」

 サブスティチュートは消え、看護婦も消えた。静かな病室で俺と進はふたりきりになって、そして世界からも取り残される。
 進は俺の腹から離れると、俺には向けない笑顔を浮かべた。脳震盪、左手親指の骨折、全身のむちうち、左半身の擦り傷、それと右頬の火傷 彼女は学園祭のミイラ、とまではいかないが、気持ちの良くない程度には包帯に巻かれていた。白くすべらかであったはずの皮膚は削れたり膿んだりしていて最低な触り心地であるはずなのに、温もりがあって愛おしい。

「俺のこと覚えてる?」
「桜庭」
「それ以外のことは」
「桜庭が自分の大切な存在であったことだけは覚えている」

 彼女は清潔極まれりといった面持ちの布団を剥ぐ。さらけ出された足には青白い血管が透けて見えた。彼女の生足をこんなに近くで見るのは初めてで、交通事故に遭って大怪我をしたはずの体は、未開封のサテン生地のシーツみたいに綺麗だった。進は俺の手を取ると、ベッドの上に引き寄せる。丁度その仕草はさっき自分が彼女にやったものと似ていた。磁力の弱いマグネットのように寄せられた自分はごく自然に彼女と共にベッドへ寝転がる。彼女は俺に布団を被せて、痛ましい頬なんて全く気にしないように笑った。しかしその本質的な表情は酷く歪んでいて、そして瞳からは元来の進を思い起こさせる融通の利かない黒が俺の目を真っ向から見つめている。硬い進の指がしなやかに俺の頬を撫でた。

「ずっとこうしていたいと思う」

 進がこんな欲求を持つはずがない 風なんて吹かないで欲しかった。



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踏襲して書きたかったんだ叶わなかったけど 本にすることもないな、でもかけてる部分があるからぼちぼち上げてこ

2022.08.22

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